人は皆、〈自由〉とはよいものだと思っている。
でも、そんなことはない。
私から見たら、人は皆、何かに縛られたがっている。
それは、〈安定〉を求めるからだ。
しかし本来、〈安定〉と〈自由〉とは真逆の概念と言える。
安定とはいわば、檻の中。
エサはきちっと貰えるが、毎日のほとんどを人間の管理下で暮らしている“サーカスのライオン”と、サバンナでいつも食料を求めて暮らす“野生のライオン”を思い浮かべると分かりやすいだろう。
サバンナの心地よい空気に憧れるように、〈自由〉を求める気持ちがありながらも、〈安定〉という檻の中のエサに釣られて本音を封じ込めている……それが現代人の姿ではないだろうか。
「まったく、自由も大変だね」などと、そんな安易な結論で終わらせるつもりもない。
ここから、
どうすれば〈自由〉と〈安定〉の両方を手に入れられるか?
について考えていきたい。
鍵を握るのは『執着』
〈自由〉と〈安定〉の両方を手に入れるために、着目すべきは、何といっても『執着』という心の働きだろう。
人間に百八つあると言われる“すべての欲”をどのように満たすかに、こだわってはいけない。キリがない。
だから、「自分にとってどうでもいいこと」と「自分にとってどうでもよくないこと」をきっちりと自分の中で区別することだ。
そしてなるべく、「自分にとってどうでもいいこと」が多くなるように努めることだ。
それはつまり、執着を薄める(捨てる)ということだ。
心が自由であればいい
例えば、健康的な食事について勉強してみる。
すると、粗食(そしょく)こそ体によいことが分かる。
それによって、食べ物についての執着は薄れるはずだ。
言ってしまえば、「食べるものなんて(健康が保てさえすれば)どうでもいい」という感覚だ。
これが得られれば、まず、“一段階”進める。
執着が薄れ、少しは〈自由〉が増えたような気がするはずだ。
もちろんそれは、「好きなものが食べられる自由」などではなく、「もう何を食べるかで迷わなくもいいという自由」である。
〈自由〉とは、物理的に多くの選択肢を持てるかどうかではなく、あくまでも“心のあり方”なのだから。
だからこそ、〈自由〉と〈安定〉が相反する概念であっても、両方を手に入れることができる。
〈安定〉の中で、“心”だけは〈自由〉であればよいのだから。
他人にフォーカスするのをやめよう
『執着』のことについて話を戻そう。
そう、『執着』を薄めて〈安定〉と〈自由〉を両方手に入れる方法のことについてだ。
心が自由になると、多くの場合は気付くはず。
それまでの自分の執着は、“どこ”にフォーカスしていたかということに。
「自分にとってどうでもよくないこと」としてそれまで自分がこだわってきたことは、本当に“自分にとって”であったのかどうか……。
ここで、自由な心は気付く。
「ホントは自分としてはどうでもいいのだけど、周り(アノ人)からどう見られるかが気になる……」
と考えていたことに。
つまり、自分ではなく、他人にフォーカスしていたのだ。
それに気付けば、人はますます〈自由〉になれる。
そう、人から自由を奪っているのは、本来どうでもいいはずの執着であり、すなわち“変なこだわり”であり、それは、他人にフォーカスしているからこそ存在するものなのだ。
おカネは必ずしも必要ない?!
ちなみに、ここに気付くためには、驚くことに、おカネはいらない。
自由を得るために必要なのは、実は、おカネではなかったのだ。
世の中、[おカネ=自由=安定=幸せ]だと思っている人が何と多いことか。
……では、ここまでの流れをまとめてみよう。
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でも安定も求めている。(自由と安定は相反するもの)
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それならば、執着をなくそう。
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執着をなくせば、心が自由になり、安定の中で自由を手に入れられる。
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同時に、それまでの自分が、他人にフォーカスしていたことに気付く。
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他人に縛られず、ますます自由になれる。
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これらに気付くことに、何とおカネはいらなかった……。
たとえ綺麗事でも頭の中に入れておく
……ここまでを読んで、単なる綺麗事と思われる方もいると思うので、私の場合は、もうひとエッセンス加えたい。
当然、今の世の中で、いきなり他人を意識せずに暮らしていこうだなんて無理だ。
無理……。たぶん無理。きっと無理。
だから、こうしたことは、とりあえず今はただ、頭の中に入れておくだけでいい。
こうしたことを、一人ひっそりと意識しておくだけでも、いずれそれが集合意識となり、世の中を大きく動かしていくはずだ。
そして、来るべきその新しい世の中に、あなたはきっとスムーズに馴染んでいくことができるだろう。